ルポ・精神病棟から35年! やっと念願果たす1970年、『ルポ・精神病棟』を書いたとき、超博学の精神科医、小林司さんに、イギリスのウェルサムという人の書いた『カインの印』を読むように勧められました。 本の題名は、旧約聖書のはじめに出てくる兄弟殺しの罪を犯したカインの物語になぞらえて、『同胞殺しの罪を背負った人々』を意味するのでしょう。第二次世界大戦下のドイツ・オーストリアで、精神病、知的障害など約27万人の人々が6つの拠点精神病院のガス室で殺された話を、戦後のニュールンベルグ裁判の資料に基いて書いた本でした。 以来、僕は障害者殺しの現場を訪ねたいと思い続けてきました。今回は、そのうちの2つ、ベルリン郊外のブランデンブルグとフランクフルト北方約100キロのハダマールにあった精神病院殺人センター跡をたずねました。35年来の念願が、やっと成就しました。 虐殺の概略は知っていましたが、いざ現場に立つと、喉が詰まるような衝撃を覚えました。 1939年9月1日のポーランド侵攻の日、つまり第二次世界大戦の始まった日、ナチスの安楽死計画は動き出しました。「生きるに値しない生命」「穀つぶし」……こんな言葉が踊る国家的プロパガンダが横行した時代でした。計画最高責任者はヒトラーの私的官房長と主治医、本部はベルリンの動物園通り4番地(東京なら丸の内1丁目)のユダヤ人から接収した屋敷に置かれました。 かつての本部は戦火で焼き尽くされて、今そこはベルリンフィルハーモニー・ホールです。敷地の片隅の地面に、世紀の蛮行を戒める真鍮の碑文が埋め込まれています。 殺人計画の大本山が交響楽の殿堂に生まれ変っていたことを、僕は初めて知りました。 安楽死計画は整然と執り行われました。国内の全精神病院と全障害者施設は、本部から送りつけられた文書に、入所者全員の障害程度を克明に記入して提出することが義務づけられました。これに基づいて、鑑定を請け負った精神科医たちが、殺す対象を選びました。 国内何百もの病院や施設から6つの殺人拠点に障害者を運ぶのは、患者輸送公益有限会社の大型バスです。ハダマール精神病院の裏にはいまも、降車場所に使われた木造車庫の屋根部分が残されています。 患者輸送バスを降りた一団は一階ホールで「お疲れでしょ。汗を流してくつろいでくださいね」とフーバー婦長にいわれて衣服を脱ぎます。地下のシャワー室に案内されると、鉄の扉が閉まります。お湯の代わりに、壁を這う管の小穴から一酸化炭素ガスが噴出します。そして……20分ほどで全員が絶命します。 遺体から金歯が抜かれて、トロッコで10メートルほど先の焼却炉へ……。 焼却炉は、いまは撤去されて、実物大の炉の写真がはめ込まれています。ガス室は、当時のまま残っています。そのタイル張りの薄暗い部屋に1人たたずむと、断末魔の叫びが聞こえるようです。 最初の2年間にハダマールだけで1万人以上がガス室に消えました。病院の煙突からは、昼となく夜となく黒煙が立ち上っていたことを、年配の地元民は今でも覚えています。 街並みも精神病棟も昔のまんま。違うのは焼却炉の煙突がなくなったことだけです。 このガス室・焼却炉を使う方法は、後にアウシュビッツなどの絶滅収容所に応用されました。600万人以上のユダヤ人、ジンティ・ロマ人(ジプシーという蔑称で呼ばれた人々)、ロシヤ兵捕虜、政治犯、同性愛者などが収容所で殺されたのはご存知の通りです。 障害者排除には当時のインテリたちが加担しました。帝国医学会会長、精神病学会会長、大学精神科教授、有名施設長の牧師や司祭たちです。 安楽死計画はヒトラーが側近に立案させましたが、法律に縛られたものではありません。怖そうな命令と「障害者を殺しても殺人罪には問わない」というお墨付きを、総統が与えただけなのです。 ナチス社会は政権そのものがテロ装置でした。言論の自由の要求には、逮捕監禁や処刑や暗殺で応えました。こんな状況のもとで、障害者殺しを容認する空気が醸成されて、開戦と同時に計画が動き出したのです。 真っ向から反対した牧師や司祭も少しはいましたが、彼等の高名さが幸いして危害は受けていません。 ヒトラーは反対の声の盛り上がりを恐れて、3年後の1942年秋に計画中止を命令します。でも、病院や施設のほとんどは、1945年5月の敗戦の日まで自主的に被収容者を殺し続けました。“自主的に”です。 障害者殺しに手を貸した人はベルリン本部から地方施設まで夥しい人数にのぼります。多くは、家に帰ればよきパパ・ママです。ベートーベンを聴き、絵画を好み、花を愛でる、世界のどこにでもいる平凡な市民です。実は、人間は動物界でも最もおっかない動物なのです。 ハダマールはフランクフルトから列車で1時間半ほどです。駅から歩いて5分の所にハダマール精神病院があって、その一角が『ナチ安楽死犯罪犠牲者記念館』です。ドイツ旅行の際には、ぜひ訪ねてみてください。心のふんどしを締め直すには一番の場所です。 1933.1.30 ヒトラー合法的に政権奪取反政府活動家、障害者,アルコール依存症、浮浪者、養護学校児童、ジンティ・ロマ人などは、強いドイツ国家を築くための邪魔な存在とされる。価値の低い生命、生きるに値しない生命、有害物質、毒、雑草といったレッテルが貼られる。 1933.7.14 遺伝病子孫予防法(断種法)成立「自分自身の健康を守るために闘う力のない者の生きる権利には終止符を打たなければならない」「確固たる意志をもって国民の体を純化し、遺伝病素質を徐々に除去するのだ」(ヒトラー『わが闘争』) 政権を取った頃から精神病院では、ひそかに安楽死措置が始まった 障害者排除思想は教育にも浸透。小学校の数学の問題の一例【ドイツには30万人の精神病者とてんかん病者がいる。一日4ライヒスマルクかかる。このカネで1500マルクの団地住宅がいくつ建つか】 「遺伝性の証明は必要なし。新しい時代を新しい人間でみたす責任ある試みあるのみ」(精神病学会の重鎮カール・シュナイダー・ハイデルベルク大学精神科教授) 1936. ナチス大プロパガンダポスターにはこんな文字が躍る【今あなたが支えている遺伝病患者は60歳になるまでに5万ライヒスマルクもかかるのですよ】(当時の最高所得層は医師で年収1万ライヒスマルクほど) 1939.9 ポーランド侵攻 第二次大戦勃発精神病院での大量殺人はまず占領下のポーランドではじまる。射殺や移動ガス室殺で。軍の病院として使うために空けるのが目的 それに先立つ同年7月ころ、ヒトラーが障害者安楽死計画立案命令。10月、安楽死権限を鑑定人の精神科医に委譲 1940.1 ブランデンブルグ刑務所に移動焼却炉設置して実験スコポラミン(筋弛緩財?)の注射では大量殺人は難しいとわかり、一酸化炭素ガスに。のぞき穴から安楽死計画の最高責任者でヒトラーの侍医のカール・ブラントらが観察 精神病と知的障害の全施設に申告用紙を配布。全障害者の情報提出を義務付ける。鑑定人の設置、公益患者移送バス有限会社の設立 1945. 終戦私たちの心の中の虐待度チェック思いつくままに10か条@ まずは日本の現実を知ろう(私の拙い著書を読んでみてください) A 厳しい現実はその気にならないと見えてこない(漢の礼記に「見れども見えず聞けども聞えず」という金言があります) B 正義感など持ち出す必要はない。「自分はそんな目にあいたくない」と思ったなら「他人もそんな目にあわせないように」と考えるだけでいい C 人間は、多くの人々がイメージしているほどには高等な動物ではない。ちょっと油断すると、すぐ弱肉強食の地金がでる D 60年前を思い出してみよう。ヒトラー政権下のナチスの時代、推定6百万人以上のユダヤ人が絶滅収容所で殺されたことはよく知られているが、それに先立ってドイツやオーストリアの重度障害者たちが精神病院のガス室で殺されて、終戦までにその数は20数万人にものぼったことはあまり知られていない。この事件は、貴重な負の遺産として、私たちの心の底に留め置くべきだ。絶滅作戦は廃れたかも知れないが、生かさず殺さず作戦は今も続いている E 障害者に対する憎しみ、嫌悪、恐怖を微塵も心に持たない人間などまず存在しない。ただし普通の人間であれば、ふだんは心の引き出しに鍵をかけて表に出さないでおく術を心得ている。しかし、「社会のお荷物」「家族のお荷物」「自分のお荷物」と考えるようになった時には危ない F 障害者の境遇改善は、精神論だけでは不十分である。雑居が当たり前の施設で「入居者のプライバシーを大切に」と叫んでも無意味だ。今の日本の施設や病院の人手基準のままで身体拘束禁止の根絶を望んでも思いは遂げられない G 福祉先進国、先進自治体、先進施設・病院の実践ぶりを勉強の糧にすることは必要不可欠である H 障害者支援は、社会の責任のもとで遂行するしか道はない。これは公営か民営かの議論とは別だ。世の仕組みを決めるのは政治家である。政治を無視した障害者支援行為は自己満足というべきである。現政権は弱肉強食路線を走っている。 I 「障害者に対する虐待度」を計る尺度があるとすれば、その右端にはナチス社会がやったような「ガス室・焼却炉」がある。では左端はなにか。私は、今の北欧に見られるような高度な福祉社会がそこに位置すると思う。さて、あなたはこの尺度のどこに身を置きたいか。 |
ナチスのプロバガンダ 【今あなたが支えている遺伝病患者は 60歳になるまでに 5万ライヒスマルクもかかるのですよ】 |